編集委員会は本学会の「日本医学哲学・倫理学会賞および奨励賞規定」(平成12年4月1日より施行)に基づき、学会誌『医学哲学・医学倫理』第 19号掲載論文の内、若手研究者(今回は年令40歳代前半までとした)執筆の論文を対象に、論文の完成度、オリジナリティー、将来性などを考慮し検討しま した結果、下記の論文を奨励賞に値するものとして推薦いたします。
受賞対象論文:安藤泰至「人間の生における「尊厳」概念の再考」(『医学哲学・医学倫理』第19号、2001年)
本論文は、著者の専門である宗教哲学の立場から「人間の生命の尊厳」をめぐる問題を考察したものである。より正確にいえば、生命倫理の具体的な問 題をいくつかの場面に分け、それぞれの場面において、「生(Life)の尊厳を尊重すること」と「生(Life)の質への配慮」とがどのような関係になっ ているのかを、そこで問われている生(Life)の意味や次元の違いに注意を払いながら論じたものである。
本論で生命倫理上の具体的な問題として取り上げられているのは、尊厳死、重度の障害新生児の治療停止、人工妊娠中絶および出生前診断による選択的中絶な どである。言うまでもなく、これらはすべて「死ぬための措置」ないし「死の選択」をめぐる問題である。そして、これらの問題において必ず持ち出されている のは、「生命の質」の判断であり、「生きるに値しない生」という形での線引きである。しかし、それだけではない。一方で、上記のような問題が議論される場 合には、「人間の生命の尊厳」の思想が持ち出されるのが一般的なのである。例えば、尊厳死においては、単なる生物学的生命の延長が「人間として意味のある 生を送っているとはいえない生」「生きるに値しない生」をもたらしている、という状況認識のもとで、「人間としての尊厳」を守るために「死」を選ぶ、とい うのが、その基本に置かれているものであるし、また、重度の障害新生児の措置においても、「人間としての尊厳の欠如」という判断が持ち込まれながらも、他 方で「生まれてきて、ここに居る」というそのことだけでそのいのちがもつ固有の価値という意味での「(個としての)生命の尊厳」が語られることが多いので ある。こうして、本論文のテーマである「生(Life)の尊厳を尊重すること」と「生(Life)の質への配慮」との関係はいかなるものかという問題が出 てくることになる。
生(Life)の尊厳を問題にするとき、著者が特に強調するのは、生(Life)の、日本語では「いのち」という言葉でしか表現できないような側 面である。すなわち、個人によって生きられる「いのち」は常に他の「いのち」(他者や自然)との交わりにおいて生きられているという側面である。このよう な「いのち」に注目することで、筆者は「尊厳」概念に関して従来とは異なる考え方を提出している。すなわち、「尊厳」という語には、単に「与えられたも の」というよりは「私たちが実現していかねばならないもの」という含みが込められている、と言うのである。「尊厳が侵される」という言い方は、一見する と、その主体ないしその特定の性質(例えば理性とか自己意識など)が「尊厳なるもの」を所有していて、それが他者によって「侵害される」かのような印象を 与えるが、本当はそうではないのではないか、と著者は問うのである(前者のように、「尊厳」の根拠が個体としての人間に内在する何らかの特質に求められる ことによって、パーソン論に見られるように、「尊厳」の名のもとにある種の生のあり方が排除されることになる)。著者によれば、「いのち」という意味での 生(Life)の本質からすると、ある「いのち」は他の「いのち」によって受け入れられ、生かされてはじめてその「いのち」としての尊厳が実現される、と 考えられるべきである。そして、このような「いのちとしての生(Life)の尊厳」の立場から、重度の障害新生児をめぐるケアや選択的中絶の問題に関し て、本論文では、実に深い考察が加えられている。
編集委員会としては、生命倫理の基本的概念である「生命の尊厳」に関して、本論文が、明快な論理の展開に基づく、独創的かつ深い洞察に満ちたものであり、本学会奨励賞に十分値すると判断した。